朱子学などについて勉強した

勉強をしました。幕府は大軍動員し翌年ようやく鎮圧しましたが、この島原の乱がおこると幕府はいっそうキリスト教をおそれ、1639年、ポルトガル船の来航を全面的に禁止し、2年後に平戸のオランダ商館は長崎の出島に移されました。これによって幕府は貿易を独占するようになりましたが、産業や文化にあたえる海外からの影響は制限されることになりました。こうしていわゆる鎖国の状態となった日本が、外に開いた窓口は4つとなりました。朝鮮に向けての対馬、琉球への薩摩、蝦夷島(アイヌ民族)への松前、ヨーロッパ・中国に向けての長崎です。幕府はオランダ船が長崎の出島に来航するたびに、商館長からオランダ風説書を出させて、海外情報を手にいれました。明についで成立した清の民間の貿易船も長崎に来航しましたが、幕府はのちに清国人を唐人屋敷とよばれる区画内に居住させました。幕藩体制がかたまった寛永期(1624~44年)には、桃山文化を受けつぎながら儒学の発達など幕藩体制に見あった文化がうまれました。学問では、室町時代の五山の禅僧が学んでいた朱子学を中心に、儒学がさかんになりました。朱子学は君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序を重んじたので幕府や藩に受け入れられました。

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